ザ・なつやすみバンドはいいぞ



 ザ・なつやすみバンドはいいぞ。皆さん夏だから聴こう。夏が終わったら夏を思って聴こう。
 僕は夏が嫌いです。暑いので。
 上記の「サマーゾンビー」を数年前に聴いて、去年は「Phantasia」を聴いて、さかのぼって他のアルバム2枚を聴いて、今もちょくちょく聴いています。とてもいいです。

 どんなバンドかって言いますと、『夏休み』をテーマにノスタルジーに強烈に訴えかけるバンドです。曲の中にはスティールパンが頻繁に登場して、ワールドミュージック感も高いのも個人的にポイント高いです。僕はノスタルジーに割と拒否感ある人間で、昔が良かったとかは思いたくないし、実際に思ってもないのですが、なつやすみバンドは、あらかじめノスタルジーを弄ぶつもりなのが新しくてとても魅力だと思います。新しくて若いミュージシャンが、実際に存在したかどうかも怪しい、漠然とした懐かしみを想起させるというコンセプト、わりと悪意を感じてこの身を焦がす感じしませんかね。どうですかね。
 いや、ここまで書いて、実際にそんなことコンセプトにしてんのか一切知りませんが。インタビューの一本も読んでないし、メンバーが何人でなんという名前かも知らんし。
 最新作「PHANTASIA」の真ん中に「GRAND MASTER MEMORIES」という曲があるのですが、残念ながらどこにも音源流れてないから紹介しようがないんですけど、ものすごく強烈な曲なんですよ。このアルバム自体、メジャーレーベルでの2枚目ということもあって、バンドコンセプトをわかりやすく打ち出しつつ現在のスタイルをプレゼンしているものだと考えますけど、半ばの「Grand~」はこのバンドがどのくらい露骨に「ノスタルジー」を意識しているのかを特にプレゼンしているのです。歌詞はこちら
 ほとんどがポエトリーリーディング形式で、リズムにはぎりぎり乗りながらもただ言葉を読み上げていくだけの歌詞で、「子供のとき過ごした夏を思い出す大人」が内容になってます。『大人』のパートである「夏がくれば~」と「空は遠くなって」の部分にメロディがついていて、その部分は一度聴いたらすぐ歌えるようなしかけになってるんですね。
 特に「空は遠くなって夢は淡くなって」を4回謳わせるところは、歌い手の立場として大人なのか子どもなのかをぼかしてあると思います。そして、ただぼんやりとその歌詞4回を口ずさんでしまう。いつもアルバムを聴き返していると、真ん中のこの部分で「夏休み」を思って、考えて、ノスタルジーの持ってる乱暴な多幸感を感じるのです。全く最高です。何とかして聴いてほしいのに、別にアルバムのリード曲でもバンドの代表曲でもないのな。「TNB!」のコンセプトの原石感も好きだし最高だけど、PHANTASIAはノスタルジーを打ち出すバンドの現在進行形を感じられてまた最高です。
 全体的にIQ高めで、メロディの引き出しや構成にそういうのを感じられます。サブカルさんも納得では。








松居一代について思い出したこと

 3週間くらい乗り遅れた感があって、ていうかまあ乗る気もなかったから書く気もなかったんですけど、松居一代について思い出すことあったんで書きますわ。

 僕、松居一代が女優仕事やってるの一回も見たことなくて「船越の嫁」という立場と「松居棒の使い手」という立場と「船越の敵」という立場の3パターンでテレビ出てるのしか知らないのですね。その中で「松居一代やばい人なの?」って思ったことが各所で一回ずつあるんです。最後のは省略ですね。
 一つ目は「船越の嫁」時代に、テレビで堂々と「離婚するときは船越を殺して私も死ぬ」と笑いながら言ってたことありました。もちろん、「そんくらい仲の良い夫婦だよ」っていうのをサービス精神盛って提供してくれたんだろうなと僕も思ってたし、製作側も当然そう思ったから放送したのだと思うのですけど、今の惨状を見るともしかしたらガチだったのかなあ、と考えたりしたわけです。

 で、二つ目がメインなんですけど、なぜかあの人、「家事の達人」としてバラエティに出まくってた時期あったんですね。もう何年前でしょうか。全然覚えてない。好きにせえやという感じです。もしかしたら思った以上に前で、僕がバリバリと引きこもりいわしてて、お昼のワイドショーとかで主婦向けに家事講習的なことを繰り返し放送してて、それの印象なのかもしれんですね。
 とにかく家の中をきれいにするアイデアとか技術をいっぱい持っているのだと。松居棒というのは、割りばしにティッシュだか布切れだかを巻き付けて小さなスキマをその棒で撫でて細かい埃を取ったりする、というような用途で開発されたと記憶してます。簡単に作れて材料費もそれほどかからんから、確かそれを使った掃除法の本なんかも発売されて、主婦がみんな真似したりとかしてたような。自信ない。でも僕の母もなんか影響されてた記憶がある。
 いつだったか番組中に、松居棒をぶんまわしながら、家の中を掃除しがてら、松居さんが急に「家の中の掃除をすると運気がよくなるからどんどん掃除しましょう」というようなことを言いだしたんですよ。
  『運気、運気とか言った?』と僕一瞬とても戸惑いまして。だって、掃除と運気関係ないですやんか。松居さんは掃除の技術をいっぱい持っている人なのかもしれないけど、風水とか占いの人ではないわけですよ。つまり「運気が上がったか否か」を判断できる立場にない。「掃除の達人の主婦・女優」という立場から急に逸脱したわけです。それ以降、松居さんがその手の発言を続けてたのかどうかは全く記憶にありませんが。

 この「運気発言」を受けて当時さらに思い出したことがありまして、細木数子という占い師が(恐ろしいことに)ゴールデンタイムに二つ自分がメインの番組を持っていた時期があったんですね。
 細木さんは番組にやってくるゲストの芸能人に、誕生日とか名前の字画とかをもとに、それはそれは偉そうに何かを断じたりするわけです。その物言いってのがどうやら『痛快』『重みがある』と世間的に受け入れられたためか、細木さんも毎週調子よく実のないことを偉そうに言う芸によって毎週その放送を乗り切ってたわけです。なんで知ってるかというと、親が見てたから。
 ある週の放送で細木さんが、なんだかいう芸能人(忘れた)の悩みを聞いて、偉そうに説教を垂れた後、「ちょっといい?」みたいなこと言って、その芸能人の背中に「エイ!」と叫びながら背中を叩いたあと「今私が力入れたからもう大丈夫」と言ったんですね。
 僕この時もぎょっとしたんです。「こいつ今設定盛ったぞ!」と。細木さんは間違いなく、四柱推命に精通した占い師さんなわけでして、けっしてサイコパワーとか霊能力とかは持ってない人なわけです。誕生日や名前の字画でその人の過去や将来を見ることができる技能を持つことはもう了承したっていいんですけど、「偉くなりすぎて逸脱したやんけ!」と思いました。番組ではもちろんそれに触れる人がいなかったような記憶ありますけど。
 でも、細木さんに関してはすぐ納得したんです。「占い師」という職業人すべてとは言いませんけども、細木さんについては、とても言い方が難しいですが、そういうメンタリティの持ち主ですよ。多分。「うっかり盛りがちな人なんだろうな」と容易に想像つくじゃないですか。だって、万能感あればあるほど説教の説得力が出ますやん。若しくは、本当にあるのかもしれませんね、霊能力的な何か。知らんけど。

 戻って松居一代ですよ。松居一代の場合、「運気が見える立場」を「家事の上手い立場」から欲しがるのって、文脈的に無理がありすぎるのよね。占いと霊能力は、両方実のないものだから、並べて同じ箱に入れたり、手を伸ばしやすい距離感なのもわからんではない。でも、「掃除がうまい」ことと「運気が見える」と発言することって、全然並べられない。
 つまり何なのかというと、松居さんはテレビを通して特殊能力の設定を得ようとしたんじゃなくて、「本当に運気がよくなると思ってるし、よくなってきたと感じているんじゃないかこの人」と思ったら、すっげえ怖くなったんです。こいつマジなんじゃないかと。だから、堂々とテレビでそんな発言ができたのでは。

 ちなみにYouTubeの動画は一回も見たことありません。ヘラヘラできないもんだと思うので。
 俺はヘラヘラしたいのだ。

手帳型ケースへの幻想を捨てて僕たちは大人になるんだ

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 みなさん、今日も入れてます?ちなみにですけど。ファッション性と機能性を折衷したやつに。 
 と、いいますのもね、僕、手帳型ケース止めたのですよ。じっくり考えて使うの止めました。

 みなさんもうご存知だと思うのですけど、僕、HuaweiのP9使ってる人じゃないですか。「八木はP9使いがちだ」と街で噂を持ち切ってるじゃないですか。実際のところ。八木なんて実在しないんだけどね。
 とにかく、去年の12月に、ゴミみたいな携帯のFreetel XMから変更して、選びに選んだP9という機種を購入したんです。もちろん、前の機種に辟易してたから「新しい素敵機能・デザインなものにする」ってことが一番の目標だったのですが、いくつかある達成したことの中に「手帳型スマホケース使ってみてえ」というのがありました。去年の12月の段階で、もう周囲を囲んでるだけのプラスチックケースを使ってる人は、感覚的には4割くらいで、大体の人手帳型ケース使っている印象でした。ですので、機種と同時に届くように計算して、P9専用の手帳型ケースも購入しました。iPhoneと違って選べる数は少なかったものの、こだわりも薄かったから「手帳型でさえあれば」と適当に選びました。

 まずP9本体が届いたときの嬉しさすごかったんです。メタル。薄い。画面きれい。動き早い。指紋認証。軽い。SIMフリー機種で世界的メーカーなだけあって、もうOS以外にiPhoneである必要は全く感じさせない、文句なく『持つ喜び』がある機種でした。で、もう一つ驚いたのは、SIMフリーではメジャーな機種とはいえ、世界的にはアクセサリにまだまだ不自由があることを自覚しているためか、ありがたいことに保護シートとソフトケースが携帯と同梱だったんですよ。気が利いてる。
 同時に購入した手帳型ケースはすでに手元にあったのですが、とりあえず同梱の、味もそっけもない透明のプラスチックケースをかちっとはめてみると、一瞬「あれ、これで別にいいのでは」というくらい良かったのです、惚れ込んだ格好いい見た目がよく見えるし、薄さ、軽さも体感できる。そもそも僕、今まで携帯のケースって『味も素っ気もない透明プラスチックのケース』ばかり使用していて、それに不満を感じたことが一切なかった。だからしっくりきたわけです。
 それをいったん外して、いよいよ画像の手帳型ケースをはめたとき、当初は、一応1000円だか2000円だかかけて購入したもんだし、「手帳型ケース」を持つことにあこがれがあったわけだから、「うん、これやな」と納得したふりをしていたのですが、今となっては『何がいいんだこれ』という思いが確かにあったことを思い出したのです。

 手帳型ケースを使用すると、前後に表紙が付くから携帯自体がとても分厚くなる。携帯の携帯性が損なわれるわけです。薄さと軽量化をメーカーが頑張って志向してきたところ、厚みと重量が増して台無しになってると思った。P9に関して言えば、背中に指紋認証センサーがあるから指を奥まで突っ込まないと認証されないのも問題やった。モデルで電気屋においてあったのは、指で軽く触れる・乗せるだけで「チャッ」という上品な音がして画面が立ち上がったのに、手帳型ケースはそういうスマートさも少しだけ殺してた。この「少しだけ」ってのが癖なのです。認証はできる。厚みも重さもたかが知れてる。
 それから画面。当たり前だけど、何の操作をするときも「表紙をめくる」というアクションがいるのね。めくった表紙は左へだらんとなるから、そのままにするか折りたたんで後ろへ回す必要がある。折り曲げたら、ケースのマチも含めて後ろに回すから、左手でつかんでおく分厚さがケース以上の感覚になるのな。落としやすい。そしてこの表紙はもういっこ邪魔で、例えばテーブルに平らに置いて使用するときは、かならず左に表紙一枚分のスペースが必要になる。でなきゃ折り曲げて後ろにやるのだが、後ろに折り曲げたらマチ分が緩やかに坂を作って水平に置けない。
 通話をするとき、表紙部に(当然かもしれんが)スピーカー部とマイク部に穴が開いていて表紙を閉じたまま通話することが可能なのだが、これ誰がうれしいのか。だって、着信を取るときは表紙をいったんめくる必要があるし、話し始めにわざわざ一回それを閉じたいと思わんのですよ。
 メリットは、スタンドとして置いて何かを見るときだけ。でも、スマホスタンドってもうこの世に存在するし、スマホをフリーハンドで立てたいというシチュエーションがこれまでの人生で何回もなかった。寝るときベッドで立てて見るにしても、別に洗濯ばさみでもいいしな。あとは堅牢性と「手帳型ケースを使用している」という満足感くらいか。

 それでも、せっかくケース買ったんだからと、7か月使用して参りました。なんせ、不便や不満はそれぞれの要素に「少しだけ」なので、捨ててしまう理由には薄い。
 けど、先日ふとしたときに、同梱でついてきた味も素っ気もないプラスチックケースのことを思い出して「あれまだあったよな」となんとなく取り出して装着してみたら、今まで忘れてた機種の薄さ、軽さ、メタルの格好良さを思い出しまして、手帳型ケースを外すことにしました。まったく、何か妖術にかかっていたとしか思えない。シンプルなのでいいじゃない。

私の口角がキラリ

 先日髪を切りました。失恋をしてないからです。2か月くらい切ってなかったから切りました。
 その時に、自分の油断した顔を鏡で見ることになりました。僕の油断したときの顔って、少しだけ笑ってたんですな。これだけ書いたらホラーみたいですけど。
 何が言いたいかといいますと、俺頑張って社会的になったもんであるなあ、と思ったわけです。

 僕はまあ、見た目が不気味なところのある人間ですし、ロボットみてえな感情のない動きをする人間なわけでして、そんな人間が14歳からいったん社会性を自分で捨てるところから33歳の現在まで社会性を理屈で構築してきたのですよ。
 その中で解決しなければならない大きな問題に、「(自分にとって主に苦痛でしかない)人との交流をどうやっていくのか」っていう部分に、「どういう」アプローチで解決していくのかっていうことを、結末と、その手段と、計画と実行を自分一人でやってかなきゃならんかったわけです。もう、普通の人には意味わからんこと書いてるかもしれん。
 例えば僕は、「人に話しかける苦痛」は「頑張って話す」ことで解決するのか「放っておいても話しかけられる」ことで解決するのか、話しかけられたあとは「会話を継続する苦痛」は「会話を頑張って継続する」ことで解決するのか「会話が途切れても気にしない形」で解決するのか。会話を継続する解決法の場合は「話題を増やして解決するのか」「相手の話を聞き出す方向で解決するのか」「自分を楽しくする努力で解決するのか」みたいなことですね。僕、今書いてて少し泣きそうになってきた。俺大変やな。生きるの。まじでいろいろやってきたな。俺は考えられない低い次元から社会性を積み上げたと思いました。ベースがなかったんだから。

 もちろん、上に挙げたことを並行でいろいろやってくことになるのですが、その中で自分がどうやら「話しかけにくい人間」であることが周囲を観察してわかってきたので、これを解決する方向でいろいろ考えたんですね。
 僕基本的に会話が苦手ですし、話しかけられて何かを期待されて、その期待をうかがって応えたり応えなかったりという判断を連続的に迫られると、もう、めちゃくちゃ疲れるのです。まあ『迫られる』とか書いてる時点で僕の社会性推して知るべしですけども。長く生きるうちに「話しかけられて明るく反応するスキル」を身に着けることには意識できてたんですが、「話しかけられるに至る」方面はまったく意識してませんでした。て、いうのは、特に話しかけられたくないから。詳しく言えば「話しかけられたくない人」に「話しかけられたくない」という意識のほうが勝って、全方位に話しかけられたくない気持ちに振っていたんですな。少なくとも、そういうこの世に数多ある「意識の振り方」については「面倒なところはできるだけ考えなくてよい方向にする」という方針がないと、本当息するのも疲れて動けなくなってしまうのです。

 長年生きてると、どの部分にどのくらいの意識を置くかの塩梅がある程度ルーティン化できてきて、数年前にいよいよ「話しかけられる人間でいるためのチャンネル」を意識っていうか設立しました。まあ20代中盤か後半で、まだ社会で生きるのにそういう段階なわけですけど。僕意味わからんこと書いてるかもしれません。全部脳内での話ですんで。
 で、今まで生きてて「なぜかよく話しかけられる人」ってのをよくよく考えたのですが、「雰囲気」ってのは、内面からにじみ出るもんだとしても、雰囲気を感じ取ることが可能なのは外面なわけで、自分の外面を内面とかい離しない程度にプロデュースする必要を感じました。『人と話すのが好き』『人を楽しませるのが好き』って人は話しかけられやすいじゃないですか。それは話したがってる様子が外面に出ているから。話しかけられたさが自然と出ているから。
 そして自分の顔を見た時に、猫背、下がった口角、半分になった瞼、気持ちの悪い顔と服、その上で多くの場合「放っておいてほしい」という気持ちがあって、こりゃあまりに社会的でない。俺はこのまま生きて死んで何も構わないと正直思っているのだけど、その社会的でなさに殺されそうになって今苦しんでいるのなら、自分を変えるのが一番面倒くさくない(悲しい話や)。コストの問題ですよ。
 最も安価に明日からできる対策が「目を少し開き、口角を上げる」というものでした。表情をやわらかくする。『表情をやわらかく』って言葉的になんやねん意味わからんわ馬鹿と思わなくもないですが、もうそれが世間に何を訴求するものかを考えないようにした。数年前に比べて僕は、意識して目を少し開いて、口角を少し上げる生活をしています。

 するとどうでしょう。数年経った現在、以前より話しかけられるようになりました。ギャフン。悲しいね。
 「話しかけやすい」というマニアックな人も数人出会ったことあります。ギャフン。
 まあそんな「話しかけやすい人」が、2年問題(説明省略)で身を置く社会が変わった瞬間にメールも電話も一本たりとも寄こさないということを相手が想像してたかどうかしりませんが。
 散髪屋に行った時に、美容師さんを前にした自分がもう意識もしないうちに「下がってない口角」であったことに、自分で戸惑いを感じてしまった、という話でした。気持ちは相変わらずついていってないからな。

デス思考力料理人・八木

 仕事で料理をよくする。すると、不思議な話であるが、大体の人にとって食べたいものというのがわかってくる。別にエスパーみたいなこと書いてるわけでなくて、また僕の料理における天賦の才が爆発しているとかいうわけでもなくて、人間には「その日の料理について外したくない」という気持ちがある、ということです。
 「外したくない」ってのは「その日まずいものを食べたくない」ということであって、決して「おいしい食べ物を食べたい」という欲求ではない。大体の人にとって、音楽やお笑いが公言するほど嫌いなものの対象でなく好意のある対象として扱われるようなもので、食べ物には「おいしい」という要素が含まれていて、夕食は「おいしい」ものであって、「おいしい」故に「楽しみ」に自然と移行しているもんなのだ。バカみたいな話である。人間は多分毎食のことを栄養摂取よりエンタメ寄りに捉えてて、基本的にその日に食べるものを、人が出してくる場合においても「食べたくない食べ物が出てくる」ということを想像していない。これ多分、人に料理を作る人だったらわかると思う。自分に料理作る人でもわかるか。人に料理を出して、旨けりゃダンマリ、まずけりゃ文句で主婦が日々の料理への恨みごとをエッセイマンガ化・ツイッター放流なんて古代からのあるあるじゃないでしょうか(適当)。
 例えば「~定食」を出すお店にフラっと立ち寄って、「唐揚げ定食」が存在しないことは想像できんと思う。僕が定食屋を出店するときに、メニューに唐揚げ定食を入れない理由が見当たらない。見当たらないどころか、メニュー表の上から3番以内に掲載すると思う。サイドメニューで唐揚げを注文できるようにもする。唐揚げは常に「誰かにとって食べたいもの」だから、僕やあなたが唐揚げを好きかどうかは全く関係がない。主婦ならともかく、仕事として料理を作る場合は、「誰かにとって食べたいもの」≒「誰もが知ってるメニュー・食材」であることは意識しないと料理できない。
 ちなみに僕は、食べ物として肉じゃがというものが全く好きではなく、この世から明日にも消えてもらって構わん料理だと思ってるが、世の中では人気メニューとして扱われていることを知ってるし、仕事としては作っている。他人に料理を出すということを含む業務を2年強続けた結果、「人が期待する食べたいもの」の、その正体の一部って、「醤油、砂糖、みりんで甘辛く味付けたもの」だとわかってきた。もっと言えば「甘味」だな。塩より甘味の扱いを制御できたら、料理がうまいとかいう評価以前の「人が食べたいもの」を料理を作る側に引き寄せて、評価を得ることができる。人間、甘辛い料理を「イマイチ」と否定することは基本的にできないのだ。
 僕は利用者さんの一部から「あいつの晩飯はよい」という言葉を頂いているのだが、甘みをコントロールすることで得た評価だけだとわかっているのでむしろ「そっちが俺のやりやすいフィールドに寄せられてんのにな」と複雑な気持ちになるのでした。「料理がうまい」ってのは、また別の評価軸があるはずです。

 僕は、料理自体の上を目指すことよりは、人が求める味や自分がわかる味を考えて作り、適当なところで手を打つ技術を伸ばす方向が向いていると思っておるわけです。それがなぜかといえば、舌が馬鹿だからです。「甘辛い味」が人間いかに否定できないかといえば、この世に牛丼屋がどんだけあるかというのを考えればわかりますわな。そして、すき屋のテーブル席でファミリーが飯食ってるのを見て「ファミレス行けよ」とか思ったことあるかもしれませんが、牛丼ってのは「全員が好きな味」なんですよ。「食への探求心をいったん殺す味」なんですよね。と、いうよりも「抗うことも面倒くせえ味」というか。「甘辛い肉と白米」を頑張って否定する元気ありますか。うまいよ馬鹿かよ。今晩食いたいよ。甘辛い肉と米の前に、魚沼産コシヒカリか松坂牛かなんか興味ないでしょうよ。僕の舌はそんなもん興味ないし、判断できないわけです。
 「魚沼産か松坂牛か、といったものを積極的に排除する思考」がよいのかどうかはわからんが、一昨日、スーパーで見たことないメーカーの3つパックのプリン買ったんですね。「プリン」でありさえすれば、「プリン的おいしさ」を当然含んでいるという考え(期待)を無意識に抱くので、家帰ってやはり何も考えずに一つ食ったんです。そしたら、極端に、ではなく、プリン的なステータスをすべて少しずつ下回る味だったんです。その時に「食に対する残酷な期待」みたいなものをはっと自覚しました。それを持って、自分の仕事における料理のスタンスが整理できたような気がしたので、今適当に書いておるところです。
 先日仕事で牛丼を出した時に利用者が「八木(仮名)さんの牛丼好きやわー」と感想いただきました。僕としては、「ウッス」と返事しながら『牛丼は好きなんだよ馬鹿かよ』と思ってました。

 あと人間の凶悪な欲求は「粉つけて揚げた物質」ね。多分靴下でもパン粉つけて揚げたら、とんかつソースかけて終わりですよ。あとは手間とのトレードですな。