腹の立つことに出会うと腹が立つなあという話

 僕は障害福祉と言われる分野の仕事をやっていることになっておりますが、この業界は本当に特殊です。
 どのくらい前だか、多分仕事に対して思う「偽らざる気持ち」の一部をそれなりに改変してここに書いたことがあるのですが、一日何ヒットもしないこのブログに、『あなたはこの業界で仕事をする資格はない』という罵倒(と解釈してかまわんと思った)のコメントを頂いたことがある。まあ、要するにそういうことである。通常思うことであっても、『言葉に出してはいけない』はわかるにしても『思うということはあらかじめその資格がない』という発想の持ち主が幅をきかせている業界である。そういう人が多分、福祉に関してのみ労働力を安価で搾取してオーケー、とはっきり主張しちまったのではなかろうかと思ってしまう。
 まあ、大前提として、僕は障害福祉の仕事向いていないと思いますよ。障害福祉っていうか、社会的に生活することがもう全く向いていないと思います。なのでコメントの方は大正解だと思います。

 仕事場の同僚とお話をしていたときに、「僕は障害に関して別に偏見なかったから(この仕事に就いた)」とためらいなく言う人がいて、すげえ違和感があった。
 僕にも似たような経験がある。不登校の交流会に出た際に、テニスの王子様や関するBL作品にどっぷりハマった女性の話の中で「こういうの話すと男女関係なく引かれるんやけど」と言ったので、「僕は何も思わんけどね」とわざわざ言ったことがある。書いてて自分で『ムチャクチャ気持ち悪いな俺!!!』と顔を覆いたくなる。
 要するに、それを発言することが自分にとってよいファッションになるということを理解したうえで上のようなことを言っているのだ。僕はその場で、相手の女性に対して「俺はみんなと違う理解ある人間だ」と一撃食らわしたかっただけだし、BLについて愛もヘイトも持ち合わせてなかった。同様に今職場にいる同僚も、僕に対して一歩優位に立ちたい一心で、わざわざそんなことを言ったのだと思う。それが違和感の正体だろう。
 「差別しない、偏見はない」という、この世の絶対に近い正義的文句は、かざした瞬間悪を薙ぎ払う効果がある。生きてて何が気持ちいいって、絶対的正義がこちらにある状況で、振り下ろす拳も称賛される瞬間でしょ。正義って容易に中毒になるな。薙ぎ払ったときに舞い上がる砂が周囲の人の頬をペチペチ叩いたとしても、まあ気にならんよな。

 障害に関して偏見がない、と言われた僕は、「あー、僕は今でもバリバリ偏見ありますけどねー」とノータイムで言った。これはまあ、頭で考えるよりも、攻撃されたという意識から反応でカウンターを出しただけだったのだが、もともとその当時や現在に至るまで、「偏見があるということを常に是正しなければならない」という立場ではなかったので、何も間違いではなかったと今でも思っている。
 この場合の「障害に対する偏見って何よ」って話だが、例を死ぬほど上げて、僕の偏見も死ぬほど上げて『みなさんもこういうことお考えですよね』と書くと、非常に複雑なことになるし不毛なのでやめた。
 でもまあ、偏見がもし事実だった場合にさらにややこしくなるということも考えていただきたい。何が言いたいかというと、「あいつってどうせこういうことじゃね?、と思ったらやっぱそうだった」という場合に、向き合うのは相手じゃなくて「お前がどうするか」ってことだけになってくるのな。だって、そんな偏見バリバリの相手に改善してもらうなんか意識飛ぶくらい面倒くさいだろうしさ。もっと言えばさ、『あいつどうせこんなやつじゃね?』っていう偏見、結構当たることありませんかね。だってそれ、経験則からきてることも多いだろうし。

 僕は障害福祉の仕事をするにあたって、職場の歪み、職員の歪み、自分の歪み、利用者の歪みについて、自分の偏見(考え)をぶつけて自分なりの事実を見つけ出しながら、当たり前に「仕事で行うことと自分が思ってることは別」ということに落ち着いた。
 どんな思いを抱えている人間だとしても、仕事として行う以上はあるべき姿と完成形を目指してやっていくのみである。それができなきゃ職業人失格だ。そして家や居酒屋で「あのクソゴミがよー」と思うことは別に咎められる筋合いはないと思ってる。言う場合はTPOに寄るだろうけど。なんか、当たり前のこと書いてるな。仕事をする上で、そういう思いを持ってしまうことが障壁になると感じたら、自分を変えていく努力が必要なだけだ。全部自分の問題なわけです。ところが、あらかじめ「他人が思うこと」を封殺しようとするこの業界全体のムードがあるのですな。

 僕が嫌いなやつ、腹立つやつは、健常者とか障害者とかいう要素で考えたことがない。ていうか誰でもそうでしょう。ニコニコ笑う障害者が漏らしたクソを処理するときと、罵倒してくる障害者が漏らしたクソを処理するときは、表面上同じように処理をしていても、前者のほうが気分よく処理できるってだけです。障害が原因で罵倒してこようが、人格的に狂ってるから罵倒してこようが、俺にとっては不快の要素としてそれほど変わらん。別にこれ、障害福祉の現場とか関係ない気がするよな。
 「俺がそのように思ってしまう」ってことはお釈迦様でも止められないのです。『思うなバカ!』ってのは本当に意味のないことなのよな。僕は僕のこと本当に人間として腐ってると思ってるけど、俺が腹の立つ対象というのは、「俺が腹が立つ要素」がそこにあるというだけで、右翼だ左翼だ障害だ芸術だイデオロギー好き勝手混ぜてくるなバカ!と思うのでした。

カフェインフリーのコカコーラ

 最近カロリーゼロの飲み物をよく飲むようになっている。主に炭酸飲料。大体家には、コカコーラのゼロフリーかゼロの1.5Lが一本以上ストックされていて、こまめに炭酸を飛ばしながら(ゲップの出ない体質なので)ちびちび飲みつつ録画のテレビを死んだ目で眺めたり、ゲームをしたりしている。最近「ゼロフリー」は呼び名もパッケージも変わって「ゼロカフェイン」になったので、お間違えないように。最近はメッツやペプシの後追いでトクホのコカコーラが大々的に発売されていますが、3年くらい遅い気がした。
 僕は労働力を搾取される代わりにおちんぎんを口座にブチ込まれる生活をしてるため、安売りの1.5Lのコーラを買う程度、屁でもありません。ソフトドリンカーのエルドラドであるドンキホーテにこまめに通って、安い日に4本くらい買って原付に積み込むという生活をしております。

 僕いつも、「なんなのこの飲み物」って思ってるのですが、みなさんはいかがですか。『なんなの』ってなんなのという話ですが、僕はいつも、ゼロカフェインを飲みながら「俺は一体何を飲んでいるのだ」と思ってます。僕がわかってないから答えなんてないんですけどもね。
 例えば、午後の紅茶のペットボトルのフレーバーティーって、ミルクティー以外はゼロカロリーなんですよ。この情報を書いて「ああ確かに」って人がどんくらいいるのかわかりませんが。多分、ペットボトルの飲料をとっかえひっかえ飲んでる人はわかると思います。ピーチとかマスカットとかあるんです。そいつらは大体ゼロなんです。僕はそれを飲みながら、「ああ、甘い紅茶を飲んでいる」と、カロリーがないにも関わらず、紅茶を飲んでいることを実感します。そこには間違いなく紅茶が含まれているからです。そしてついでに「カロリーゼロで得したな」とも。
 僕がカロリーゼロの飲み物をよく飲むのは、砂糖を摂りすぎるリスクが明確なのに対して、人工甘味料の明確なリスクがあんまり出てこなかったからです。あと、ここ数年の大幅な味の改善。以前は腹壊すくらい拒否反応や、エグさが含まれてたんですけど、今は本当なにもなくて素晴らしい。もちろん、不自然さをどこかで感じているから『自分は代替品を使用している』という感覚がどっかにあるのはあります。こうして、言葉にすることはほとんどないのですが、カフェインフリーコーラを飲む自分は『本来赤のコーラを飲むはずがこのようになっている』と思っているわけです。
 そういう点からいえば、午後の紅茶のフレーバーティーは、紅茶自体がそもそもカロリーのない飲み物であって、甘味は不随するだけのものだから、たとえカロリーゼロであっても紅茶を飲んでいる点は揺るがない。ややこしいのは、午後の紅茶のフレーバーティーって、カロリーゼロな上にカフェインも漂白されてたりするから、紅茶の大きな要素であるものがないことについては、少し引っかかってはいます。「俺は何を飲んでいるのだ」感はわずかにあります。

 そういう意味で、カフェインフリーのコーラですよ。
 コーラってもう、「糖分が多い」「カフェインが入ってる」「コーラ味である」で、要素としては終了なんですよ。カフェインフリーのコーラはもはや「コーラ味である」という根拠のほかに、これをコーラだと証明する手段がないんです。そして、『コーラ味』はコーラの葉を煎じて発生しているもんではないから、僕にとっては無いに等しいものなんですね。よってもう、カフェインフリーのコーラの『何もなさ』って、ものすごく不思議なんです。いつも。俺は変なことを書いているのではないだろうか。例えば、カフェインフリーを『水』として飲むとどういう部分が問題になってくるのか、とか考えてしまう。
 「ついに発売!紅茶の葉を使っていない紅茶!」っていう商品が発売されたら、「それは紅茶なのだろうか」となる。「ビタミンCとクエン酸を完全にカットしたレモン」でもそうなる。レモンを買いにスーパーに行くとしたら、多分フライものの脂っこさを軽減したいとか、風邪を引いたからはちみつと一緒に混ぜてジュースにしたいとか、『レモンである』という状態に期待することに金を出すわけで、酸っぱさとビタミンCをカットしたレモンは、改めてその用途を考えないと用事がない物質になるわけです。それってなにか、ものすごく無駄な活動や運動であるのではないか、積極的にその存在を否定しながら求めるようなインモラルな行動じゃないかと思うわけです。

 コーラを飲みたがっているのに、コーラらしさは求めていない。

 『では俺は、一体何をしているのだろうか』

 とちょっとだけ怖い気持ちになりながら、ガブガブ炭酸を飛ばしたコーラを日常的に飲んでおるのです。
 カフェインフリーのコーラ1.5Lは、僕の家の近くで、安売り時1本108円で売っています。ゼロよりマイナーで見つけにくく、ゼロより味があっさりしていて違うものなんだけど完全にコーラでもあります。俺は一体何を飲んでいるのでしょうね。

火曜日にはしなくてよいことをする

 週一回くらいは更新していこうと思った(無理かもしれない)。

 リアルタイムでラジオは一切聞かなくなっておりますが、不思議な手段でいくらでも放送済みのラジオを聴くことは可能な世の中なので、むしろ聴く量は増えている今日この頃です。で、久々にオードリーのANNを掘り返して聴いているのですが、あんだけ売れっ子のお二人が毎週ラジオ用に、意識的に何かを行動して、とりあえず報告するという作業をもう何年も継続しているというのに、僕みたいなヒマヒマの実を食った「無職がなんちゃって正社員してます」みたいな人間が、「何もない週であり、今後もおそらく何もない人生であろう」とか書いてしまうのはどうかと思ってしまった(長い)(書いてない)。
 こうやってホントだらだら書き出してみればなんなと書けるんだけどもね、やっぱりブログから離れてみて思うことというのは、俺がただただ趣味で、好きだからやってたのだなあ、ということでした。趣味じゃなくなるかどうかなんか、俺次第だったわけですな。だからこう「俺あんま更新してないブログあんなー」という腹のどっかにしまい込んでいる意識が消えたら、もう何もなくなるだけの話であって、まだ消えないならもう少し趣味として燃やしてみようか、と先日思った。

 二つ前のエントリーで「今年は映画見ていくか」と宣言してみて、週に1回は、雨でも降らなければ、映画を観る生活をさっそく開始している。映画つーか、映画をダシに、外出をしていくことにした。
 僕の住んでいるところから梅田や難波っていうと、それなりに移動が手間なんですよ。つって、最大1時間ですけど。僕は、目的がないと家から一生出ない人間なので、「毎週映画を観る」という目的を設定すると、外に出て金を使う理由になってとてもうれしいわけです。まあ、劇場で見た映画については、Filmarksにもりもり書き込んでいくから、別にここで触れることはないと思う。
 とりあえず僕はですね、外に出て「目的をなくす、見失う」ということが恐怖に近いくらい嫌なのでですね、電車等使わず、ものすごく歩いて時間を消費するのです。歩くのはいいぞ。あんまり疲れないし、ラジオや音楽を聴きながら風景を見られるからな。
 どのくらい歩くのかというと、難波梅田間とかを歩きます。大阪人じゃなきゃピンとこないかもしれませんが、まっすぐ歩けば1時間半くらいです。15時くらい開始の映画を観る、という目的を設定して、2時間前から難波出発とか、梅田出発にして、そのまま1時間半歩き続けます。僕のスマホに歩数計あるのですが、毎回1万歩超えます。途中おなかがすいたりするので、入ったことのない店に入って昼飯なり夕食なりを食べます。
 これをやると、目的のない人生、家で一切動かない人生が、街並みを眺めつつ軽い運動をして、食べ物屋さんを開拓しながらラジオや音楽を聴き、映画で教養を高めてJRや地下鉄に金も払う、というとても有意義な人生になるわけです。

 俺はとても変なことを言ってるのかもしれない。よくわかってない。
 やっぱり繁華街に出ようとしたりしますと、格好も気使うし、なんか体によい気がする。

 休日にしたいことはないのだが、「しなきゃならん(しても苦ではない)ことがある」ってのは、僕にとってはありがたいんです。まあ、今のところは。こんな無駄な工程に他人を付き合わされへんけどな。理解されへんやろうし。

 そういう火曜日の過ごし方でした。

3年目だヨ!

 同僚が次々辞めていく職場です。
 僕が初めてくらいに職場の人と酒を飲んだ際に、「どう、ここで仕事した感想は」と聞かれて、正直に「どうしてもここでなきゃいけない、って感じは全くないですね」というと、その先輩は「まあそれやな」と相槌を打ってた。もっと言えば、入って1年満たない人間がそれを言ってもいいくらいには、職場としての不安定さを共有できるわけですな。
 僕は今勤めている場所で、辞め際にどうしても感謝を伝えなければならない人は存在しないので、誰が辞めたって正直知ったこっちゃないと思っているのですが、「人がどんどん辞めていく職場」ってのは、自分がそこにとどまろうとするモチベーションも削るもんだなあ、と身を持って感じるところです。

 現在手取り19万と年賞与1.8か月という収入は、前職からアップしてて、住むところに金を払ってない自分としては、全く余裕で暮らしていけます。突然10万の買い物が必要になっても年数回くらいは大丈夫です。残業は、月で10時間くらい。年末年始・特別休暇がなく、祝日が関係ないので、他の職場と比べると月平均でプラス10時間くらい残業が発生してるかもしれませんが、それでもまあ、月20時間くらいの残業です。この世の中で平均かそれ以上の職場環境かもしれません。下を見すぎか。しかしもう、僕は半分以上僕の人生で金銭的成功を収めることをあきらめているので、「もっと貰えたらなあ」と幻想的に考えることはあっても、「(この職種は・俺の仕事ならetc)もっと貰えるはずだ」とかはカケラも思いません。ていうか、「お前らよく俺に金払うなあ」といつも思ってます。自分の何が評価されて月20万くれてるのか全然ピンときてません。金貰えてラッキーと思ってます。
 そして、僕にとって精神衛生上とてもよいのは、一人で仕事ができる時間が多いことがあります。僕の職域は障害者対象のグループホームで、利用者数人に対して一人の職員がいて、業務フローはあってないようなものなのです。最低限のチェックポイントは存在するけど、極端な話、次に引き継ぐ職員がぱっと見てわからなければ、どんな仕事をしたのかを知られるすべはない。僕はそういう、ブラックボックス化された環境で「嘘をつかず一人でこつこつとやる」ってことに、向いている人間だと思ってます。同時に、福祉職ってのは、それをやって売り上げに貢献するような仕事というものが『非常にみえにくい』ので、数字に追われず仕事ができるってのも大きいです。だからこそ、僕みたいなゴミ人間が掃きだめのように集まってくる職場ではありますが、それはもう仕事として取り組めば「僕に向いている」と思ってます(福祉職が僕という人材を適格だと思ってるかはもちろん別)。
 プラス、統括の上司が非常にちょろいです。上司の威厳で何か言うことはないし、気軽に電話してすぐ捕まえられるから、現場の風通しはよいと思います。問題解決能力は薄く、超人的なメンタルを持っているので、ただただ職員と利用者の文句を投げ込む便所みたいになっています。そういう、威圧する人がとても少ないのも、今の職場で(自分にとっては)よいと感じています。

 それでもまあ、先日3年目を迎えた僕からして、この職場で仕事続ける理由がさっぱり見当たらないのが正直なところです。目をつぶってただ毎日を過ごせば、タナボタの月20万がもう少し継続できるというのに、このところはずっと『とにかくここをやめなければならないのでは』とばかり考えています。
 このままここで仕事をすると、この職種でそれなりに有難がられる資格が得られる。そうすると、いよいよ今後ともこの仕事を続けていくことになる。僕はイデオロギーも薄いし、ソーシャルアクションやるほど気力も体力もないし、これを続けることがベストかどうか全然わからない。はっきりしてるのは、新しいことをやる元気がないってだけ。辞めるのも体力がいるから、辞めてないだけのこの仕事を、結婚だ転職だキャリアアップだ病気だで辞めていく人を見ると、「俺はこれでよいのだろうか」と考えるのであります。

今年劇場で映画を見ていくかもしれない

『八木』の映画レビュー | Filmarks
https://filmarks.com/users/yagiwagon

 2011年限定で、僕は劇場で160本、家で80本の映画を、サラリーマンやりながら見た。家では、今から見る映画の予習として、前編や監督の前作をさかのぼってみたり、原作小説やノベライズをもりもりと読んだ。難解な映画はパンフレットも買った。その理由というのは、「他生物との話題にわりと利用価値のある文化」であり、「続けられそう」であり「わりとおもしれえ」であり、今思うと「消費する喜び」とかも大きかったと思う。なんちゅうか、趣味に金をじゃぶじゃぶ使ってる時って、「俺もオタクのスタートラインに立てたかしら」という成長の実感と、高速で無駄にならない金(と思い込めるもの)を吐き出す合理性のドラッグに酔えるのよね。
 その結果得たものは、多少映画の話題についていけるようになったことや、映画について、または映画を通して自分の価値観を見ることなどであって、まあよかったのではないかと思う。ていうか正直、『よっしゃ映画の話いつでも来いや』となってから、世間様が意外と映画を見ていないことに拍子抜けした記憶もある。僕が映画を親の仇のように見ていたのは2011年だけであって、そっから今にかけては、全く能動的に見ていない。初めからわかっていたが、僕は見なくても全く気にならないし、そもそも映画が特別好きではないので、見なくてよいのだ。が、『2011年の貯金』が6年経過した現在でも余裕で持っている。あの時期、浅はかな女子中高生にぶん投げられた砂糖菓子みてえなハンサムごり押し映画だろうが、自分がどこの膣から生まれたかまるで理解していないジャリどもに向けたアニメ映画だろうが、劇場でちゃんと経験したということが、思った以上に自分を構成する要素になっているし、見た240本というのは、市井の人が見る映画に対する温度とはかなり違っていたのだと思う。「俺はこの趣味をものにする」という気合で手にした貯金なのだろう。

 今年、自分の現在の生活サイクル的に、「映画くらいしかやることねえ」というタイミングがよく発生したので、なんなと映画をみることになっている。そしてとうとう、テアトルグループの会員カードと松竹系の会員カードを作った。今年は多分、映画を多く見ていくことになると思う。
 2011年のような生活をやんわりと開始してわかったことなのだが、「いろいろな映画を見る」ってことって、僕の収集癖と合致してるのよな。僕は面白い映画を見たいのではなくて、「(面白いorつまらない)映画を見た、という事実」が欲しいだけなのですな。どういうことかというと、本当の映画ファンによくある「同じタイトルを劇場でn回以上見る」という行為あるじゃないですか。僕、あれを理解できないんですよ。今まで本当にしたことないです。どれだけ面白い映画であっても。僕にとって重要なことは、映画を心から楽しむことでなくて、その映画を劇場で見たという事実だけなのです。だから、1度でも劇場で見たのなら、イメージで四角い正方形のマスにチェックがぺしっと入ってそれはもう征服したってことになる。普段劇場に足を運ぶわけでもない人から「あの映画は劇場で3回見た」とか言われると、「ああ、それは俺がやってる映画レイプみたいなことより何十倍も尊くて価値のあることじゃないか」と目が覚める思いです。

 僕は『何か文化的な時間の捨て方をしたい』と常に思っています。とにかく外に出たい気持ちがある。が、目的がないと布団の上から動けない。食道楽でもないし、観光する元気もないし、あらゆる買い物はネットのほうがお得で面倒じゃない。何回か、「とにかく難波に出てみよう」と思って出てみたら、自分の発想が貧困すぎて、やっぱりやることは特に見つからなかった。会う人も出かける人もいない。使う金もない。見たいものもない。
 そこで映画ですよ。僕は上のような気持ちと同時に『しんどい思いはしたくない』という気持ちもあるので、映画という掘れば永遠の深さと広さがあって、こちら側の考えを表明する余地のない文化はうってつけなのです(まあ、僕が金を使う文化のすべてがそういう受け身の文化ではあるが)。一時期、このポジションに「ライブ」ってのもあったなあ。出る、見る、帰る。見るものは出先で数時間提供してくれる。どんどん俺の脳みそが死んでいく気もするが、映画館ってのはさすがに家に存在しないからな。何をすりゃいいのかわからない自分でも、映画を見る経験はかなり汎用的である。

 去年からフィルマークスというサイトを使って、映画館でみた映画についてはこつこつと感想を書いている。僕的には短く感想を書いて、ある程度そろえているつもりなんだけど、他の人の感想で僕くらいの文量の人は珍しく、多分気持ち悪い部類である。しかし、今まではこっそりブログできまぐれに書いていたものが、こちらが画像や基本情報をそろえずとも、決められた書式でズラズラと並んでってくれるのはとてもありがたい。どっちかというと、もう映画を見た記録するほうがより「見た事実」を強調できるし、時間が経って『俺は俺の考えをよく表せているなあ』とあとで感心できてよい。さすがにSNSだから、ご迷惑な文量にするのははばかられるけども。2016年の方がビッグタイトルの一つ「君の名は。」を今週になって抑えることができたので、やっと人権を得た気持ちです。