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1000円カット税をお支払いした

 1000円カット税でもあり、散髪税ともいえるね。
 僕は散髪嫌いなんですよ。超面倒くさくないですか。もう何回書いたんだろうかこの話。そんな書いてないか。俺が心の中で叫んでるだけか。わりと書いた気がするんだけど。じゃあ改めて書きますと僕は散髪嫌いなんですよ。
 昔は月に1回、「このような髪型にしたい」とか「今のような髪型は嫌だ」というような、鏡に映るきもちゃーりー自分が持つ「理想の自分」と向き合わなきゃならんタイミングとして相当嫌だったんですね。文字にしていて相当狂っていると思った。僕は、「この髪型が似合う」と思って外を歩くのも嫌だったんです。だから、今もそうですけど、大体帽子被って外出てたんですね。そういう、髪型に関して何か考えることで消費する時間とか金とか糖分とかが嫌で、家でバリカンで丸坊主にしてた時期もあった。ちなみに二十歳ですよ二十歳。『どうせ何やったってきもちゃーりーんだから丸坊主でいいだろ』と思ってたけど、明らかに丸坊主にしてた時期は今に輪をかけて気持ち悪かった。
 そういうこともあってか、ていうか単に年食って反社会的であることに疲れてきたともいえますが、髪型を気を付ける、ということに慣れてきている現在であります。もちろん市井の人々からすれば恐ろしく低次元なレベルですが。

 散髪税とは何か。僕がこの文章を書く2秒前に作った造語です。散髪代に付随する消費税ではなくて、「髪を切ることによって発生する不可逆的なリスク」つまり「散髪失敗の可能性」のことを指します。俺が指すと言っているのだから指すのです。
 散髪をする際には常に、この散髪が失敗に終わる可能性がゼロではないことを意味していると思うのです。そうすると「みすぼらしい現在」と「金を払ったうえ無様になる未来」を選択するのが「散髪に向かう」ということになるわけですね。大げさな、って話ですけども、大げさじゃねえよこの野郎。1か月経過したら、頭の片隅でいつか散髪税を払うことを考えておかなきゃならんわけで、これを1年10回弱くらい繰り返し、80年生きたら(嘔吐)80回この税をお支払いしなきゃならんわけだ。馬鹿か。面倒くせえ。散髪面倒くせえよ。実際に失敗しなくとも、可能性に対して心労という形でお支払いしなきゃならんのだ。

 そんなわけで、僕は1000円カットを利用している。1000円カットは一般的に、失敗のリスクが高まる風味のようですけども、僕の場合は、明らかの短髪のヘアカタログの切り抜きを見せて「こんな感じで短く」とオーダーするので、半端に長い人や女性が大胆に切る場合のリスクと比べて小さいと思ってる。今まで『やっちまったな』と出来上がりを眺めて思うことはもちろんあったけど、はっきりいってその確率って、それまで通ってた美容室で発生する確率とあんま変わらんのだ。だったらもう、1000円でいい。俺は今のところ、俺の社会性を補完するためのものとして散髪を捉えているし、後ろと左右刈り上げて後はさっぱり短ければもうなんでもよいのだ。清潔感で世間をぶん殴ることしか考えてない。

 先日1000円カット行きましてね、派手に失敗したんですけど、今までと次元が全く違う失敗だったんですよ。
 いつも通り明らかに短髪のヘアカタログの切り抜きを持っていって「このようにお願いします」と言って、あとは目をつぶってたんですけど、後ろと左右を刈り上げた以外は、前髪とか後ろ髪がほぼ切る前の長さだったんですね。
 切ってた時間もトータルで5分くらいだったし、「ハイお疲れさまでーす」と言われて目を開けると、すっごい長かったし、その割にサイドは刈り上げてるし、僕もう見た瞬間「アッハ、長い、長くないですかねこれ?」てもう半笑いで言ったんです。もう、なんていうか、注文と何もかも違ったので。ヘラヘラしてしまった。初めての経験でした。
 で、あんま注意して見てなかったけど、切ってくれた人、よく見たら『髪切る人』の全く逆ベクトルにいるような人だったんです。別に、年配の人だからとか、オシャレじゃないから、とかそういうんじゃなくて、トラック運転手みたいなでかくてガッチリして日焼けしてる、二言目にはタメグチで職業聴いてくる肉体派のおじさんだったんです。1000円カットって確かに、美容師くさくない人が美容師やってて、見た目に不安も多いんですけど、教育がしっかりしてるようで、くたびれたおじさんでも大体指定通りに仕上がるんです。でも、今回担当してくれたおじさんは明らかに、その新人教育で矯正不能な、「他人の髪を切ることに(おそらく)全く興味のない人」だったんですよ。

 「いや、もうちょっと前髪とかその写真くらい短く切ってもらえないですかね」

とヘラヘラしながらお願いしたら(写真も2秒で畳んで全く見てなかった)、

 「写真、ああ、こんくらいの短さやで、あとでワックスつけたらええわ」

と頑として追加で切ってくれなかった。僕、今まで生きてて、「もうちょっと短く」を断る美容師さん初めて出会った。そんだけはっきり断られたら、言うこと見失って「あ、そーすかー」と言って退店した。僕がパワフルマンだったら『舐めとんかボケ』でいいのだと思うが。
 その足で別のお店行って、「この写真くらい切ってもらえますかね」と同じようなことをもう一度言って切ってもらった。さっき幻でも見たような気持ちだった。「あ、実はさっき切ったばっかりなんですけどォ…」と聞かれてもないのにさっき見た幻の出来事について、担当してもらった美容師さんにペチャクチャしゃべってしまった。
 おばちゃん美容師さんは、「いや…なにこの切り方…何ミリ使ったんやろこのバリカン…失敗ちゃうんこれ…」と散髪直後の僕の髪をいじりながら、仕上がりのひどさについて説明してくれた。

 ああ、なんか、書いてみると大した出来事じゃなかったみたいやんか。
 1000円カットって、本当にどの系列のどの店舗でも、仕上がり変わらんのですよ。でも、美容室で働く人って、少なくともやりたくて美容師やってる人がほとんどなんですよね、多分。でも1000円カットは脱サラパターンとか、急場にリクルートした転職組とかが含まれてるから、1000円カットにしか起こりえない派手な失敗があるのだと、今回勉強したわけです。そういうお話でしたありがとうございました。

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俺だけの事実を口にするでない

 とてもつらい。
 相変わらずラッキーパンチ就職でどったんばったん大騒ぎ(オリジナルのポエム)な昨今のわたくしなのですが、前々から生きるの向いていないと思っているので、そこに社会生活とかなったら余計につらくなっております。なんとか、こういう無駄なことを書きながら、本題にスムーズかつ大胆に入り込める文章が出てこないかなあ、と考えております。

 このネットの世界では、障害者であることをうっかり悪口の一つとして使われたりするようですけども、そもそも僕の職場環境が障害福祉のジャンルであるわけで、特に社会福祉に熱くない僕としては「使い方間違ってるけどなあ」とか思ったりするわけです。「脳に障害があるんじゃないのか」という文章は、一応そういう職業に就いてしまった人間が読むと、「高次脳機能障害ということなのかな」と思ってしまうというような。つまり「超絶バカ」と同じ意味合いで「脳に障害がある」という言葉を使われると、『ズバっとこねえ悪口だなあ』と思ってしまうわけです。
 逆に言うと一応この職業で働いてる自分が「障害があるのではないか」と言った場合は、その人を悪く思っているかどうかは別にして「障害がある」という意味そのままなわけですよ。
 で、また僕は『そう思っている、ということに抗えない(抗うことは無意味だ)』と考えている人間でして、僕は僕が見えたもの・考えたことはある側面からはかなりピュアな成分で見せていると思っていたりします。ある意味で、自分でそういう訓練を課して生きてきたような気すらします。リンゴはより赤く。カラスはより黒く。表現ってまあそういうことだろうしさ。この僕の文章が『表現』云々の枝葉でも語るってことは異論受け付けます。生きてる僕がキーボード叩いて打った文章なんだから表現でいいだろ。そんくらい開き直ろうか。ごめんなさい。

 何が言いたいかと言いますと、「僕が見えている事実を語るだけで対象を傷つける可能性が高い」という場合は「事実だから仕方がない」と思っていいのかわからない、と思うわけです。
 一段落前の話で言いますと、「あいつ障害あるんじゃなかろうか」という発言は、どういう意図を込めて、たとえ文章そのままの意味であったとしても、それが悪口として十分な強度を『普通』含んでしまうよね、っていう話ですな。
 それに対して僕は「じゃあどう言えばいいんだタコ」とイライラするわけです。
 増してそれが、仕事上伝えることが必要な内容だったりすると、尚更な。
 そして、仕事上必要な『普通悪口と捉えられる内容』を伝えることで反撃をしばしば食らうことに、僕はとても理不尽を感じるわけです。俺が趣味で相手に悪口言ったと思ってんのか馬鹿が、と。

 とはいえね、間違いを指摘される、というようなことを全く感情を排して受け止めることが通常難しいのは、僕自身のことを考えても当然かなあと思います。僕なんて職場でキャリア浅いですし、職種でもキャリア浅いし、ていうか社会人キャリア浅いし。それがどういうわけか管理職まがいなことやらされてて、そんな年下でキャリア浅い人間から指摘されてイラつくなっていうほうが無理な話なんでしょうけどね。
 まあだから俺のこういう配慮についてだって、「てめえの仕事がゴミだからてめえよりゴミの俺が指摘せざるを得ないんだよゴミ」という僕から見えている事実にミルクと砂糖をたっぷり入れて伝えてしまうわけですよ。
 そしてその人どうやら職員にして障害持ってるんで、また話ややこしいんだわ。

 いつも思うのが「僕が捉えた事実そのままを素直に言葉にする、ということは特に誰も求めていないことなのではないか」ということなのです。素直に言葉にしないことが社会的であるということな気がする。誰もが気付いている厳然とした事実であっても、口に出さなかったらそこにないことになる。そういう状況を見ると『この人たちは見えていないのか』『または俺にだけ見えている(俺が狂っている)のか』と揺さぶられ、場を見て事実を言ったり言わなかったりするが、口に出した瞬間「自分もそう思ってた」とひったくるように自分の意見にしていく現場を何回も見た。そういう状況に出くわすと、急に責任が可視化されたされたような気がした。
 『自分が思っていた”これ”は誰もが口にするのをはばかることであって、ないほうがよい』と思うたびに心でその思いが鋭い言葉になっていって、隠そうとするのがしんどくなる。『俺はそんなことを思わないほうがよい』と意味のないことを考えてしまう。
 だって、誰も口に出そうとしない。そうやって社会的にやっていこうとする。対して俺は、俺にとって不快な要素が他人にとっても不快かもしれないと思ってしまうし、一旦まな板の上に乗せないと気持ち悪くなってくる。なんてあさましくて性格の腐った人間だろうか、と考えてしまう。『俺という人間はなんて社会的でないのだろうか』と。

 同時に、『抗わない・抗うことに意味がない』と考える僕ですので、『俺がそう思った』ということは、もう絶対なんです。揺るがないんです。俺がそれを言葉に出したってことは、ストーリーも根拠もあって、他人も俺も否定できないんですよ。
 じゃあ俺の思う「これ」はなんなのだ、と。苦しむ要素でしかない。
 気付かなければ、考えなければもうちょっと楽に生きれたかもしれないのに。
 だからこそ僕は、僕の考えを言葉に出すときって『ある程度否定しがたい客観的なもの』であることから出していくようにものすごく気をつけているのです。ここも『(特定の人を指して)お前らとは訳が違うほど採用する事実も言葉も選んでいる』と強く思うし、余計に自分で「思うこと」を否定できなくなってくる。真っ向から安い武器で立ち向かってくるようなやつは、また浅い思考と弱い根拠で「とにかく一撃食らわしたい」という悪意一点でぶん殴ろうとしてくるからな。

 そんで僕も、「これも仕事だ」と諦めて何発かぶん殴られるんですよ。ヘラヘラして。
 殴られている間『生きるのがつらい、早く死にたい』といつも思う。
 考えなければ、何も見なければ楽なのにな。

ザ・なつやすみバンドはいいぞ



 ザ・なつやすみバンドはいいぞ。皆さん夏だから聴こう。夏が終わったら夏を思って聴こう。
 僕は夏が嫌いです。暑いので。
 上記の「サマーゾンビー」を数年前に聴いて、去年は「Phantasia」を聴いて、さかのぼって他のアルバム2枚を聴いて、今もちょくちょく聴いています。とてもいいです。

 どんなバンドかって言いますと、『夏休み』をテーマにノスタルジーに強烈に訴えかけるバンドです。曲の中にはスティールパンが頻繁に登場して、ワールドミュージック感も高いのも個人的にポイント高いです。僕はノスタルジーに割と拒否感ある人間で、昔が良かったとかは思いたくないし、実際に思ってもないのですが、なつやすみバンドは、あらかじめノスタルジーを弄ぶつもりなのが新しくてとても魅力だと思います。新しくて若いミュージシャンが、実際に存在したかどうかも怪しい、漠然とした懐かしみを想起させるというコンセプト、わりと悪意を感じてこの身を焦がす感じしませんかね。どうですかね。
 いや、ここまで書いて、実際にそんなことコンセプトにしてんのか一切知りませんが。インタビューの一本も読んでないし、メンバーが何人でなんという名前かも知らんし。
 最新作「PHANTASIA」の真ん中に「GRAND MASTER MEMORIES」という曲があるのですが、残念ながらどこにも音源流れてないから紹介しようがないんですけど、ものすごく強烈な曲なんですよ。このアルバム自体、メジャーレーベルでの2枚目ということもあって、バンドコンセプトをわかりやすく打ち出しつつ現在のスタイルをプレゼンしているものだと考えますけど、半ばの「Grand~」はこのバンドがどのくらい露骨に「ノスタルジー」を意識しているのかを特にプレゼンしているのです。歌詞はこちら
 ほとんどがポエトリーリーディング形式で、リズムにはぎりぎり乗りながらもただ言葉を読み上げていくだけの歌詞で、「子供のとき過ごした夏を思い出す大人」が内容になってます。『大人』のパートである「夏がくれば~」と「空は遠くなって」の部分にメロディがついていて、その部分は一度聴いたらすぐ歌えるようなしかけになってるんですね。
 特に「空は遠くなって夢は淡くなって」を4回謳わせるところは、歌い手の立場として大人なのか子どもなのかをぼかしてあると思います。そして、ただぼんやりとその歌詞4回を口ずさんでしまう。いつもアルバムを聴き返していると、真ん中のこの部分で「夏休み」を思って、考えて、ノスタルジーの持ってる乱暴な多幸感を感じるのです。全く最高です。何とかして聴いてほしいのに、別にアルバムのリード曲でもバンドの代表曲でもないのな。「TNB!」のコンセプトの原石感も好きだし最高だけど、PHANTASIAはノスタルジーを打ち出すバンドの現在進行形を感じられてまた最高です。
 全体的にIQ高めで、メロディの引き出しや構成にそういうのを感じられます。サブカルさんも納得では。








松居一代について思い出したこと

 3週間くらい乗り遅れた感があって、ていうかまあ乗る気もなかったから書く気もなかったんですけど、松居一代について思い出すことあったんで書きますわ。

 僕、松居一代が女優仕事やってるの一回も見たことなくて「船越の嫁」という立場と「松居棒の使い手」という立場と「船越の敵」という立場の3パターンでテレビ出てるのしか知らないのですね。その中で「松居一代やばい人なの?」って思ったことが各所で一回ずつあるんです。最後のは省略ですね。
 一つ目は「船越の嫁」時代に、テレビで堂々と「離婚するときは船越を殺して私も死ぬ」と笑いながら言ってたことありました。もちろん、「そんくらい仲の良い夫婦だよ」っていうのをサービス精神盛って提供してくれたんだろうなと僕も思ってたし、製作側も当然そう思ったから放送したのだと思うのですけど、今の惨状を見るともしかしたらガチだったのかなあ、と考えたりしたわけです。

 で、二つ目がメインなんですけど、なぜかあの人、「家事の達人」としてバラエティに出まくってた時期あったんですね。もう何年前でしょうか。全然覚えてない。好きにせえやという感じです。もしかしたら思った以上に前で、僕がバリバリと引きこもりいわしてて、お昼のワイドショーとかで主婦向けに家事講習的なことを繰り返し放送してて、それの印象なのかもしれんですね。
 とにかく家の中をきれいにするアイデアとか技術をいっぱい持っているのだと。松居棒というのは、割りばしにティッシュだか布切れだかを巻き付けて小さなスキマをその棒で撫でて細かい埃を取ったりする、というような用途で開発されたと記憶してます。簡単に作れて材料費もそれほどかからんから、確かそれを使った掃除法の本なんかも発売されて、主婦がみんな真似したりとかしてたような。自信ない。でも僕の母もなんか影響されてた記憶がある。
 いつだったか番組中に、松居棒をぶんまわしながら、家の中を掃除しがてら、松居さんが急に「家の中の掃除をすると運気がよくなるからどんどん掃除しましょう」というようなことを言いだしたんですよ。
  『運気、運気とか言った?』と僕一瞬とても戸惑いまして。だって、掃除と運気関係ないですやんか。松居さんは掃除の技術をいっぱい持っている人なのかもしれないけど、風水とか占いの人ではないわけですよ。つまり「運気が上がったか否か」を判断できる立場にない。「掃除の達人の主婦・女優」という立場から急に逸脱したわけです。それ以降、松居さんがその手の発言を続けてたのかどうかは全く記憶にありませんが。

 この「運気発言」を受けて当時さらに思い出したことがありまして、細木数子という占い師が(恐ろしいことに)ゴールデンタイムに二つ自分がメインの番組を持っていた時期があったんですね。
 細木さんは番組にやってくるゲストの芸能人に、誕生日とか名前の字画とかをもとに、それはそれは偉そうに何かを断じたりするわけです。その物言いってのがどうやら『痛快』『重みがある』と世間的に受け入れられたためか、細木さんも毎週調子よく実のないことを偉そうに言う芸によって毎週その放送を乗り切ってたわけです。なんで知ってるかというと、親が見てたから。
 ある週の放送で細木さんが、なんだかいう芸能人(忘れた)の悩みを聞いて、偉そうに説教を垂れた後、「ちょっといい?」みたいなこと言って、その芸能人の背中に「エイ!」と叫びながら背中を叩いたあと「今私が力入れたからもう大丈夫」と言ったんですね。
 僕この時もぎょっとしたんです。「こいつ今設定盛ったぞ!」と。細木さんは間違いなく、四柱推命に精通した占い師さんなわけでして、けっしてサイコパワーとか霊能力とかは持ってない人なわけです。誕生日や名前の字画でその人の過去や将来を見ることができる技能を持つことはもう了承したっていいんですけど、「偉くなりすぎて逸脱したやんけ!」と思いました。番組ではもちろんそれに触れる人がいなかったような記憶ありますけど。
 でも、細木さんに関してはすぐ納得したんです。「占い師」という職業人すべてとは言いませんけども、細木さんについては、とても言い方が難しいですが、そういうメンタリティの持ち主ですよ。多分。「うっかり盛りがちな人なんだろうな」と容易に想像つくじゃないですか。だって、万能感あればあるほど説教の説得力が出ますやん。若しくは、本当にあるのかもしれませんね、霊能力的な何か。知らんけど。

 戻って松居一代ですよ。松居一代の場合、「運気が見える立場」を「家事の上手い立場」から欲しがるのって、文脈的に無理がありすぎるのよね。占いと霊能力は、両方実のないものだから、並べて同じ箱に入れたり、手を伸ばしやすい距離感なのもわからんではない。でも、「掃除がうまい」ことと「運気が見える」と発言することって、全然並べられない。
 つまり何なのかというと、松居さんはテレビを通して特殊能力の設定を得ようとしたんじゃなくて、「本当に運気がよくなると思ってるし、よくなってきたと感じているんじゃないかこの人」と思ったら、すっげえ怖くなったんです。こいつマジなんじゃないかと。だから、堂々とテレビでそんな発言ができたのでは。

 ちなみにYouTubeの動画は一回も見たことありません。ヘラヘラできないもんだと思うので。
 俺はヘラヘラしたいのだ。

手帳型ケースへの幻想を捨てて僕たちは大人になるんだ

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 みなさん、今日も入れてます?ちなみにですけど。ファッション性と機能性を折衷したやつに。 
 と、いいますのもね、僕、手帳型ケース止めたのですよ。じっくり考えて使うの止めました。

 みなさんもうご存知だと思うのですけど、僕、HuaweiのP9使ってる人じゃないですか。「八木はP9使いがちだ」と街で噂を持ち切ってるじゃないですか。実際のところ。八木なんて実在しないんだけどね。
 とにかく、去年の12月に、ゴミみたいな携帯のFreetel XMから変更して、選びに選んだP9という機種を購入したんです。もちろん、前の機種に辟易してたから「新しい素敵機能・デザインなものにする」ってことが一番の目標だったのですが、いくつかある達成したことの中に「手帳型スマホケース使ってみてえ」というのがありました。去年の12月の段階で、もう周囲を囲んでるだけのプラスチックケースを使ってる人は、感覚的には4割くらいで、大体の人手帳型ケース使っている印象でした。ですので、機種と同時に届くように計算して、P9専用の手帳型ケースも購入しました。iPhoneと違って選べる数は少なかったものの、こだわりも薄かったから「手帳型でさえあれば」と適当に選びました。

 まずP9本体が届いたときの嬉しさすごかったんです。メタル。薄い。画面きれい。動き早い。指紋認証。軽い。SIMフリー機種で世界的メーカーなだけあって、もうOS以外にiPhoneである必要は全く感じさせない、文句なく『持つ喜び』がある機種でした。で、もう一つ驚いたのは、SIMフリーではメジャーな機種とはいえ、世界的にはアクセサリにまだまだ不自由があることを自覚しているためか、ありがたいことに保護シートとソフトケースが携帯と同梱だったんですよ。気が利いてる。
 同時に購入した手帳型ケースはすでに手元にあったのですが、とりあえず同梱の、味もそっけもない透明のプラスチックケースをかちっとはめてみると、一瞬「あれ、これで別にいいのでは」というくらい良かったのです、惚れ込んだ格好いい見た目がよく見えるし、薄さ、軽さも体感できる。そもそも僕、今まで携帯のケースって『味も素っ気もない透明プラスチックのケース』ばかり使用していて、それに不満を感じたことが一切なかった。だからしっくりきたわけです。
 それをいったん外して、いよいよ画像の手帳型ケースをはめたとき、当初は、一応1000円だか2000円だかかけて購入したもんだし、「手帳型ケース」を持つことにあこがれがあったわけだから、「うん、これやな」と納得したふりをしていたのですが、今となっては『何がいいんだこれ』という思いが確かにあったことを思い出したのです。

 手帳型ケースを使用すると、前後に表紙が付くから携帯自体がとても分厚くなる。携帯の携帯性が損なわれるわけです。薄さと軽量化をメーカーが頑張って志向してきたところ、厚みと重量が増して台無しになってると思った。P9に関して言えば、背中に指紋認証センサーがあるから指を奥まで突っ込まないと認証されないのも問題やった。モデルで電気屋においてあったのは、指で軽く触れる・乗せるだけで「チャッ」という上品な音がして画面が立ち上がったのに、手帳型ケースはそういうスマートさも少しだけ殺してた。この「少しだけ」ってのが癖なのです。認証はできる。厚みも重さもたかが知れてる。
 それから画面。当たり前だけど、何の操作をするときも「表紙をめくる」というアクションがいるのね。めくった表紙は左へだらんとなるから、そのままにするか折りたたんで後ろへ回す必要がある。折り曲げたら、ケースのマチも含めて後ろに回すから、左手でつかんでおく分厚さがケース以上の感覚になるのな。落としやすい。そしてこの表紙はもういっこ邪魔で、例えばテーブルに平らに置いて使用するときは、かならず左に表紙一枚分のスペースが必要になる。でなきゃ折り曲げて後ろにやるのだが、後ろに折り曲げたらマチ分が緩やかに坂を作って水平に置けない。
 通話をするとき、表紙部に(当然かもしれんが)スピーカー部とマイク部に穴が開いていて表紙を閉じたまま通話することが可能なのだが、これ誰がうれしいのか。だって、着信を取るときは表紙をいったんめくる必要があるし、話し始めにわざわざ一回それを閉じたいと思わんのですよ。
 メリットは、スタンドとして置いて何かを見るときだけ。でも、スマホスタンドってもうこの世に存在するし、スマホをフリーハンドで立てたいというシチュエーションがこれまでの人生で何回もなかった。寝るときベッドで立てて見るにしても、別に洗濯ばさみでもいいしな。あとは堅牢性と「手帳型ケースを使用している」という満足感くらいか。

 それでも、せっかくケース買ったんだからと、7か月使用して参りました。なんせ、不便や不満はそれぞれの要素に「少しだけ」なので、捨ててしまう理由には薄い。
 けど、先日ふとしたときに、同梱でついてきた味も素っ気もないプラスチックケースのことを思い出して「あれまだあったよな」となんとなく取り出して装着してみたら、今まで忘れてた機種の薄さ、軽さ、メタルの格好良さを思い出しまして、手帳型ケースを外すことにしました。まったく、何か妖術にかかっていたとしか思えない。シンプルなのでいいじゃない。

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