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父親死にました①(長い)

 父が死にました。
 「父が死にました」って報告のあとに書くべき言葉ってなにかしらね。僕は別にお悔やんでほしいとか冥福お祈り申し上げられたいってわけでなくて、とにかく今思うことは、「父が死にました」って書くと、『社会』とケツに書かれたマチバリで脊髄をつついたかのように、自分の意思と無関係に「コノタビハ」「オクヤミ」と口から漏れ出てしまう程度には、ある程度人にとって強大な事実であるっていうことですよ。つまり、僕の身に起こった強大な事実なわけでして、これを話題として取り上げざるをえない、ってことだけわかっていただきたいし、わかっていただけなくともまだダラダラと書きますよ、という話です。そして、誰かが死んだら、社会的な反応を引き出さざるをえないってのがなんだか申し訳なくてね。
 これを読んでいる方々の中で「普段の僕を知っている」という人はゼロ人のはずですので、僕ならびに僕の父について興味が濃い方もゼロ人だとは思いますが、もしいらっしゃった場合は名乗らず速攻で森に帰って頂けるとありがたい。もしくはLINEでもください(無視します)。

 書いててさらに思ったけど、父が死んだことを飽くまで話題の一つとして出したということであっても、そののちに「悔やまれたいわけじゃなかったのに」等と僕が思うことは僕の身勝手さそのものであって、あらゆる人々の社会的反応について「すいません」とか「ありがとうございます」とか、こちらも社会的反射でブツクサ言っておけばいいのかもしれん。ただ、すべて終わった後やっぱり「なんだこの一連は」と思うのだがな(書いてて面倒くせえ奴だと思う)。

 父の話について、別に誰かがたどって読むとも思わないが、大方カテゴリに固めていると思うのでご確認ください。足りないところもある気がします。が、さかのぼって読まれると精神的に辛いので、大体のあらすじを書きましょう。

 まず、さかのぼること4年前に、父が階段から落ちました。その際脊髄を損傷し、四肢麻痺になりました。
 まずここに至る前には、10年近く前に脳の病気で一度死にかけ、死にかけたストレスでお酒飲みすぎ止められない病となり、性格が急変して母と離婚し、父方の母親と同居している、という状態にありました。脳の病気によって左半身の麻痺もそこそこ残っている状態でした。
 1か月間急性期治療を受け、3か月回復期治療を受けたあと、医療的なケアが恒常的に必要だったので、療養病棟のある病院へと転院した。そのまま現在まで3年半、トータルで4年弱。僕はといえば、身内が障害者となった際に必要となる手続きを中心になってやっており、なかなかおぞましい作業量でした。全くこの世の中は「五体満足で生きていた人が四肢麻痺になる」というライフコースを非常にレアなケースとして整備しないまま片づけていることがよくわかりました。そしてまあ、こんなレアケースのために整備費用支払うくらいなら、その目にあった人や周辺の人にある程度コスト支払ってもらったほうがよい、というのも効率的に考えて無理のない話だと思いました。そして実際のところ、話し合いとゴリ押しで何とかなることも多かったしな(面倒だが)。

 父が手足動かなくなってからのストーリーを語ろうと思って書き始めましたけども、考えてみればその生活の細部が僕にはわからんし、「病院で天井を見ていた」という活動が4年間の中心になるので、さすがに胸にくるものがある。実際は、もっといろいろ起こっていたはずだしさ。文字にできるもんじゃねえな。
 「症状固定」の診断が出て、無事障害者手帳が下りてからの父の体調は、刺激の極端な低下(もしくは外傷)による認知能力の低下がまずありました。例えば、体が動かないことに関して、自分なりに納得に至ろうと考えに考えすぎた結果、今寝ている場所が外国のホテルだったり、捕虜収容所だったり、ゴルフ場だったり、妄想がかなり切れておりました。また、定期的にヘルパーがおむつ交換をすることに関しては、「自分が知らない間に猫が布団に潜り込んでクソをして帰る」という妄想でほぼ固まっていて、プライドを保とうとしていました。しょっちゅう「あさってからは出勤するから」とか言ってたしな。
 次に血圧の不安定。当初急性期には車いすで移動することもできたのですが、ある時期からは頭部を上げると血圧が急激に下がって意識レベルが低下するため、一切移動というものができなくなりました。あるとすれば、ベッドごと入浴室か検査に移動するときだけ。とにかく、頭を上げると死ぬ可能性が出てきたので、ベッドに張り付く生活を余儀なくされておりました。
 次に尿道の損傷。父は脳梗塞をもともとやっていたので、血流をよくする薬(バイアスピリン)を常飲してたのですが、トイレにも行けない父は数年という単位でバルーンカテーテルを装着する生活をしていたため、しばしば尿道から出血しました。尿道から出血すると、血流がいい場合には当然血圧が下がって死にそうになるので、薬を投与するか否かであり「脳梗塞か血圧低下か」というリスクの2択を迫られることになりました。
 次に脳梗塞。上の理由でばっちり脳梗塞が発症。これをきっかけに左半身の本格的な麻痺に加えて、それまで一応元気に言葉を発していたところが、体調によって話せない状態になりました。
 次に嚥下機能の低下。脳梗塞にも関連するけど、そもそも全身動かない場所だからけで、少しずつ機能が衰えてきてはいたので、ちょくちょく誤嚥がおこるようになった。
 次に誤嚥性肺炎。まんまやね。誤嚥するので肺炎を起こしたり治ったり。こっから飲み込みができなくなって経鼻栄養が始まった。これが9月の下旬。
 次に腎不全。そもそも体が動いていないんだから、代謝機能も落ちてきて、とりあえずもともとよくない腎臓の機能が大幅に落ちていることが判明。
 そして昨日死にました。お疲れさんです。

 僕はと言えば、4年間、何もなきゃ週に2,3回は病院に行っては父の顔を覗いておりました。4年間ってのは、なかなかすごい話である。文字にしたら。でも、正直、父の見舞いをダシに外出していたところもあるので、それほど苦でもなかった。例えば、父の病院の近くには天下一品があるので、それ目的で出かけたりな。回転寿司のときもあった。
 父の症状が回復することがない、ということは医者の説明を受けてわかってたし、何か希望をもってお見舞いをしていたというわけでも、親子の情愛でお見舞いをしていたというわけでも、楽しみを得るためでも、苦を乗り越えるためでもなかった。自分が父の状態というものを、「取り組むべきミッション」として飲み込むことができた、というだけのような気がします。といって、別にこののち自分の人格的成長を見込んでたわけでもない。ただ、すんなりと僕にとってそういう日常のルーティンが加わっただけだったのでした。
 こういう状態は、当然相手が父って存在だったからが一番大きいのだけど、僕にとって、父が死にかけた故に発生したあらゆる作業の数々というものが、「向いている作業」だったのだと思う。

 父が死んだあとに「よく頑張ってくれたねえ」と祖母や親戚に声をかけられたのだが「そう思ってくれるのなら、それを大いに利用しよう」とは思いつつも、僕がやったことは僕に向いている作業ばっかりだったので、違和感はあった。他人が他人の苦労や喜びを測ろうってのは土台無理があるのだと思った。俺は頑張ったのか、と言われれば、頑張れることだから頑張っただけで、頑張れないことは初めからしなかっただけだ。
 例えば、何か重大な手続きを父の代理で行う際に「しつこいほど書類と電話のやりとりののちに某銀行の奥の奥の部屋に通されて、ねっとり説明を受けた後に実印を押す」といった作業もあったのだが、超面白かったです。そういう経験。それをやりたかったかと言われればわからんが、本当にこういう大事な書類や人を代理であれこれする作業が嫌って人もおるだろうな。僕は、それを強いられてやる分には何も抵抗がなかった。僕はちょうど、自分で考えて何かをし、そのあと責任を負うという圧迫のサイクルにうんざりしていて、父の関するいろいろな作業は、なんていうか、ちょうどよかったのでした。

 ということで、明日以降に父が死んでからお葬式終了まで書きます。
 モチベーションが続けば(元気はまったくない)。

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